
1.プロローグ
ロウムは、生まれながらにしてすべてを持っていた。
ただ一つ、「愛情」だけを除いて。
彼の世界には、広大な屋敷があり、磨き抜かれた銀の食器が並び、最高の教師たちが常に控えていた。あらゆる知識と技能は幼い彼に惜しみなく与えられたが、誰ひとり、彼の心に寄り添おうとはしなかった。
両親は社交界と事業に忙しく、いつもどこか遠いところにいた。屋敷に仕える使用人たちは、決まった笑みを顔に貼りつけながら、どこかよそよそしく、形ばかりの丁寧さで彼を扱った。
ロウムが何を話しても、誰も耳を傾けようとはしなかった。
ある日のこと。静かな午後だった。
彼の小さな手から、ひとつの皿が滑り落ちた。
次の瞬間──甲高い音を立てて割れる磁器の音。
その場にいた召使いのひとりが、反射的に叫び声を上げた。
驚き、動揺し、目を見開いて彼を見つめたその顔。
そのとき、ロウムの胸に、妙な感覚が芽生えた。
「自分の存在が、誰かに影響を与えた」──そう初めて実感した瞬間だった。
それは奇妙な快感だった。まるで、氷の中に初めて火が灯ったかのように。
それ以来、ロウムの心には、ある"欲求"が深く刻まれていった。
やがて少年は成長し、周囲の人々を「観察対象」として見るようになる。
優しい笑顔をつくり、友人のふりをし、嘘で人の心を操っては──その反応を冷静に眺めた。
相手が涙をこぼし、怒りを爆発させ、
自分の言葉ひとつで心を揺さぶられるたび、ロウムは満たされていった。
それは、彼にとっての「生の実感」だった。
そしてある日、彼は気づく。
他人をもっとも確実に変化させる、簡単で残酷な方法。
──「奪うこと」。
人が大切にしているもの。絆。秘密。信頼。
それらを静かに、巧みに奪い取るたび、相手の目が変わる。
その変化こそが、ロウムにとって最高の愉悦だった。
今のロウムは、すべてを演じている。
笑顔も、涙も、友情も──すべては仮面。
他者の感情を引き出すための道具にすぎない。
だがその奥底には、誰にも気づかれることのない、冷たい空洞が横たわっている。
かつて、一度も真の「愛」や「信頼」に触れることのなかった、ひとりの少年の孤独。
彼の心は、他者を壊すことでしか「本当に大切なもの」を知ることができなかった。
哀れで、そして──静かに狂っていた。