
1.Isabelle
幼い少女にとって、歌うことはただ純粋な悦びだった。
覚えたての旋律を、無邪気な誇らしさを胸に、集まった客人の前で披露する。
最後の音符がパチンと弾けて消えると、大人たちの甘やかな声が降ってきた。
「なんて可愛らしい子」
「将来はさぞ美人になるのでしょうね」
少女の顔や髪を優しく撫でながら。
少女は、ただ愛らしく微笑んでみせた。
褒められたのだから。
けれどその言葉は、祝福の皮をかぶって、知らず知らずに少女の内側へ重い錨を落としていった。
その日を境に、年端もいかない少女が歌を口ずさむことは減っていった。
代わりに、鏡を見る時間は、増えてゆく。
誰に言われたわけでもない。
気づけば、そうなっていた。
やがて、うら若き少女は社交界へと足を踏み入れる。
そこは、穏やかな顔をした残酷な海のようだった。
流行という潮が満ち引きし、
噂という泡が弾け、
耳障りなセイレーンたちが、耳の奥で絶えず値踏みの歌を歌い続けている。
その喧騒の中でも、
彼女は話題の中心にいた。
理由はひとつ――その美しさのためだ。
イザベル、イザベル、イザベル。
___今季社交界の最高にして唯一の華、イザベル!
賛辞は尽きなかった。視線は集まった。
光の射す温かい海面、彼女はただ嬉しかった。
けれど、妙齢となった少女は、焦りを覚えるようになる。
大衆の視線が彼女を通り過ぎてゆくようになったから。
それはまるで、光の届かない深海へと、ゆっくりと沈んでいくかのような感覚だった。
あんなに騒がしかった周囲の音が、少しずつ遠ざかってゆく。
あんなに暖かかった絶賛の声が、ひんやりとした拒絶に変わってゆく。
賑やかな海面から切り離され、光を失い、ただ静かに、冷たく、深く――。
「ああ、イザベル、貴女は一体どこがダメになってしまったの?」
割れた鏡に映る自分に問う。
彼女は何も変わっていない。
ただ、新しいもの好きな皆の視線が彼女の奥にいる若い娘へと移り変っただけで。
2.毒杯を呷る女
社交界の夜は騒がしい。
音楽が流れ、人が集まり、笑い声が重なっている。
まばゆい光が降り注ぐ海面は、いつだって目まぐるしい。
それでも、流れには必ず澱みが生まれる。
彼女の周囲が、そうだった。
かつては誰もが立ち止まり、熱い視線を注いでいた場所に、
今は冷たい潮が通り過ぎていく。
少し離れた向こう岸では、デビューしたばかりの瑞々しい令嬢が、
人々に囲まれて鈴の転がるような笑い声を上げていた。
かつてイザベルに跪いた者達が、今はその少女の機嫌を取るために熱心に囁きかけている。
そのうちの一人と一瞬、目が合った。
紳士は気まずそうに、しかしすぐに興味を失ったように、露骨に視線を若い娘へと戻した。
憐れみすら含まれたその一瞥は、ナイフよりも鋭くイザベルのプライドを切り裂いた。
手にしたグラスが、指先が、怒りと屈辱で微かに震える。
イザベルは深く息を吐き、震える指をグラスに這わせて止めた。
そして、湧き上がる激情を凪ぐように、喉の奥で小さく、古い旋律をなぞる。
それは幼い頃に捨てたはずの、純粋な悦びの記憶だった。
ほんの数秒のハミング。完璧な微笑みの仮面を仕立て直すための、彼女なりの儀式。
「いやあ、賑やかですね。本当に」
その耳障りな澱みに、場違いなほど軽薄な声が割り込んできた。
振り返るよりも先に、男はイザベルの視線の先、
つまり楽しそうに群れる若い娘たちを眺めながら、わざとらしく小首を傾げた。
「……おや?でもなんだか、以前よりあなたの周りは随分とスッキリしているような?」
彼女が振り向くより先に、言葉は続く。
「前はもっと、ここに人が集まっていたでしょう?あなたの周り。輪ができるくらいに。
ねえ、マドモアゼル・イザベラ?」
「……イザベルよ」
イザベルは滑らかな手つきで髪をかき上げ、冷ややかな声音で訂正した。
しかし、男は悪びれもしない。
「ああ、失礼しました。あなたのその美貌に対して、『イザベル』じゃどうにも響きが硬くて、
私の口が拒否してしまう。……ま、名前なんて記号ですからねイザベッラ。
そんなことより、今日は皆、向こうに夢中みたいだ?」
彼がゆっくりと移した視線の先には、ベイトボールのように群れた若い娘たち。
流行の色、楽しそうな笑い声。光の踊る海面で、今まさに弾けている新しい泡。
イザベルは微笑んで、少し間を置いてから答えた。
「若い方が、好まれるのよ」
それを聞いた彼は、すぐに頷いた。
「でしょうね。流行ですから。若さって便利ですよね。そこにあるだけで価値になる。……でも」
彼はイザベルを見る。
いや、正確には――彼女の“今”を見る。
「若いだけと、本当に美しいは違うと思いませんか?」
「あそこのお嬢さんたちも瑞々しくて素敵ですが、あれは『若さ』という今が旬の、
誰もが好むデザインだ。
ですが私は、そういう時代の流行りモノよりも、あなたのように時を超えて洗練された、
本物の美しいデザインが好きなんですよ」
まるで彼女のことを言っているかのように男は楽しそうに語る。
「……だからって、時の流れに抗えるものじゃないでしょう。
人の好みは移ろうものなのですから。」
ふっと鼻で笑ってみせたものの、イザベルの胸の奥には、
確かにその言葉が棘のように刺さる。
男は、そこで少しだけ間を置いた。
「抗う、というより――
沈まない方法がある、と言ったら貴女はどうしますか?」
「……お伽話なら、他所でして頂戴」
向けられたのは、底の浅い誘惑をあしらうための、小馬鹿にしたような笑み。
だが、彼女の返答を聞いた途端、
それまでは横で楽しそうに語らっていた青年の空気が、がらりと変わった。
正面から向き直った彼の顔から、それまで張り付いていた笑顔が剥落する。
一転して、射すような真剣な表情で彼女を見据える男の瞳。
その奥から剥き出しになった、底知れない知性と冷徹な眼光に釣られ、
彼女は喉を締め付けられたように息を呑んだ。
「老いも、損耗も、『抗えない』と決めつけない学者がいます」
我に返った彼女は、意味がわからないというように目を瞬かせる。
しかし、背中を冷たい汗が伝うのを止められない。
「貴女は、これが流行のデザインの話ではないことはお分かりでしょう?」
イザベルは、喉の渇きを覚える。
「……危険な話ね」
「もちろん」
即答だった。
「安全な話なんて、面白くない。でも、これは公平な取引です。
リスクを負うのはあなた。成功すれば、あなたは永遠に“選ばれる側”」
間髪入れず、続ける。
「失敗すれば?まあ、その時は……今より悪くはならないかもしれませんよ」
イザベルの指先が、グラスを強く握りしめる。
男はそのかすかな震えを見逃さない。
「ね、Win-Winでしょう?
こちらは実験が進む。あなたは可能性を手に入れる」
青年は、再び軽薄そうに笑って肩をすくめた。
「何もしなければ、このままあの若い娘たちの引き立て役として、
惨めに老いさらばえて沈むだけですし」
脳裏に、さっきの紳士の冷たい一瞥が、
そして数年後、
誰からも見向きもされなくなった哀れな自分の姿が鮮明に過る。
差し出された選択肢の重みが、彼女の理性を、
プライドという名の狂気で塗りつぶしていく。
男は満足そうに微笑み、胸ポケットから一枚の金の刺繍入りの黒く美しい名刺を取り出した。
「もしその方法を試す気になったら、裏の住所へ。
――ああ、そうだ。僕の名前は■■■。■■■と言います。
星座にあやかっていてね。安直で酷いものでしょう?」
イザベルは吸い寄せられるように、美しく、静かにその名刺を受け取った。
彼は満足そうに、話題を変えた。
「おや、音楽が変わりましたね。私達も踊りますか?」
イザベルはまだ知らない。
この男が与えるのは救いではなく、
沈みきるまでの加速だということを。
「いいえ、結構よ」