
1.序章(背景)
生まれ落ちた瞬間から、彼の世界は静かに病んでいた。
画魄は、生まれたときから虚弱で、生後間もなく呼吸器に異常があると診断された彼は
幼少期のほとんどを白い天井と、消毒液と薬品の匂いが充満した薄暗い病室で過ごしていた。
「なぜ自分の身体は、こんなにも脆いのだろう」
それは無垢な疑問であると同時に、彼の人生をかたちづくる最初の火種となった。
やがて画魄は、その問いを問いとして抱えたままではいられなくなり、
肉体という構造を、理論から解き明かすことを目論んだ。
成長とともに、彼は自然科学を中心とした総合的な学問を究めていた。
肉体という器は、複雑で精緻な構造体で、そして驚くほど、理屈に従って動いていた。
その理解は、彼の中に絶対的な敬意を育てた。
人の肉体をこの世に存在させる「構造」を創りあげた人物へ。
それはまさに“創造者”の名にふさわしい偉業だった。
けれども、その完璧な構造を把握すればするほどに
この構造は、壊れるようにできているのだということも同時に理解できていた。
「あらゆる細胞は老化し、臓器は劣化し、
最終的には肉体という器そのものが崩壊する。」
この世界の創造主である神はなぜこんな唯一の欠陥を許したのか。
なぜ、これほど緻密な構造に、破綻の期限が組み込まれているのか。
彼は思考を巡らせるうちにある一つの思考にたどり着く。
「我々が未だ“死に至る構造”を修正できていないのは、神の意志ではない」
「それは、人間がまだ、神の与えてくださった解答に辿り着けていないというだけの話だ」
彼は、人類を憎んではいなかった。
ただ、神が授けたはずの“可能性”を汚す者たちの怠慢が、許せなかったのだ。
やがて、彼はこう記すようになる。
「死は神の呪いではない。むしろ、それは“問い”である」
「我々が死を受け入れるのは、神からの問いを理解しようとしない怠惰の証明だ」
「人類はこの問いに、唯一の“解”をもって答えなければならない」
それは宗教でも、科学でもなく、信仰と理論が一体となった哲学だった。
そして画魄は、自らの存在そのものを、その答えの一部に変えてゆく。
──神は完全である。
ならば不死もまた、完全の一部であるはずだ。
そう信じて、彼は今日も生の限界に挑み続ける。
1.人魚の血
彼は、自分の時間が他人より明らかに短いことを知っていた。
だからこそ、誰よりも「永遠」に憧れていた。
ある晩、何度目かの発作から意識を取り戻した彼は、点滴も呼吸器も拒み、
ふらつく身体を引きずるようにして病室を抜け出そうとした。
一秒たりとも無駄にしたくはなかったのだ、
死という現実から目を逸らせるあの実験室へ行かずにはいられなかった。
廊下の先、誰もいない病棟の中庭。そこで、彼はひとりの少女と出会った。
フリルのあしらわれた白いネグリジェに身を包み、透き通るような肌と、
ふわりと波打つブロンドの髪を持つ少女だった。
彼女は、閉鎖的で薄暗い病棟とは対照的に、まるで御伽の国から抜け出してきたかのような
雰囲気を纏っていた。少女は噴水の縁に座り、画魄に向かってこう言った。
「あなたも眠れないの?眠れないのならお話はいかが?」
画魄は目を伏せ、その場を背にして歩きだした。
関わらないほうがいい。幻想に浸る余裕など、自分にはない。
──だが。
「人魚って知ってる? 食べたら、不老不死になれるのよ」
その言葉は、驚くほど自然に、静かな夜の空気に溶け込んだ。
思わず足が止まった。振り返りはしなかった。言葉を返すこともなかった。
だが、耳は、否応なくその声に引き寄せられていた。
「ずっと綺麗なまま生きいられるのって、すごく素敵なことよね」
その言葉は、夜の静けさの中で、彼の心臓の奥深くへと染み込んでいった。少女は続けた。
「いつか私が人魚になれたら、貴方にも血を分けてあげる」
画魄はやはり何も言わなかった。ただ、静かに視線を落としたまま──
彼女の言葉が夜の静けさに染みこんでいくのを、聞いていた。
──それから数年が経った。
もし医師の言うとおりであれば、画魄の命はとっくに尽きているはずだった。だが、彼はまだ生きている。
なぜなら──
彼は、自らが調合した試薬──「人魚の血」と名付けた薬液を、自らの身体に投与したからである。
彼はかつて少女から聞いた人魚の伝説から着想を得て、
幾つもの仮説と実験を重ね、一つの薬液を作成していた。
それこそが、彼にとって初めての錬成による不老不死の試薬だった。
一度目の注射で、画魄の身体は激しく拒絶反応を示した。
痙攣、嘔吐、目眩、意識の喪失。
──数時間後。
彼が目を覚ましたとき、病に蝕まれていた身体は、驚くほど正確に脈を打っていた。
呼吸は深く、皮膚は温かく、眼は冴えていた。
明らかに、病状は修復されていた。
だた、これだけでは実験のサンプルとしてはまだ不完全だった。
──では、欠損した器官はどうなるのか?
考えるよりも身体が先に動いた画魄は手元にあったメスで目玉をくり抜いた。
切り口は滑らかで、すぐに血流が止まり、感染の兆しもなかった。
だが、待てども眼球は再生されず、やがて傷口は完璧に封じられたまま癒えてしまった。
失われた目も、神経も──戻らない。
彼は理解した。
「人魚の血は“維持”と“修復”はできるが、“創造”はできない」
「欠損した器官は、材料も構造もなければ、戻らない」
彼の望む不老不死とは、欠けたものも満たす術である。
だが、今の薬液ではそれはできない。できないということは
「完成に足りない要素がある」ということでもあった。
──ならば、それを見つければいい。
足りない器官を補い、血を循環させ、記憶を宿し、呼吸を始めさせる。
“死んだ命”を“死ぬ前の姿”へと戻す構造を作る。
塞がれてしまった眼窩の奥を、鏡越しに静かに眺めながら──
画魄は、ひとりごとのように呟いた。